亡き母をしのんで

「亡き母をしのんで」と題して、昭和56年11月3日に亡くなった父・米田義昭が生前原稿用紙に残した文章を公開します

一 家庭通告簿

先年、故増田弥作(母の叔父)氏の遺族から、静岡県志太郡焼津尋常高等小学校発行の家庭通告簿(児童氏名増田志津)をいただいた。交付年月日大正四年七月三十一日で学歴に大正四年尋常科第一学年修了とあり、一学期から三学期まえの記載があるから、一年生の一学期の学期末にこれをもらい、その後二学期末、三学期末にそれぞれ記入を受けたものであろう。

生年月日明治四十二年三月十七日生、「住所族籍戸主トノ続柄」静岡県志太郡焼津町北新田一九九番地徳次郎長女、「保護者住所職業氏名」静岡県志太郡焼津町北新田一九九番地無業曽田まさとある。

この生年月日について、母は生前私に本当の生年月日は明治四年三月七日だのに、お祖父さん(徳次郎)が呑気だから、出生届が遅れて十七日になったのだと言っていた。母がそれを誰から聞いたかは知らぬ。今となっては真偽を確かめるすべがないし、その必要もないが、そういうわけで、私は母の誕生日を三月七日だと思っていた。そして父(享一)の誕生日が三月十一日で、私が三月十三日だから、三人の誕生日が続くが、母は私の誕生日に合わせてささやかな祝いをしてくれたものである。

母の成績はあまりよろしくない。一ないし三学期の通覧(つうらん)で、修身丙、国語丙、算術乙、図画丙、唱歌乙、体操丙、手工丙、品等丙、操行(そうこう)二等とある。もっとも、その通告簿の注釈によれば、「当該学年の程度に於て最も善良なるものを(甲)とし之に次ぐものを(乙)とし学年相応のものを(丙)とし稍下るものを(丁)とし相当せざるものを(戊)とす。」

「操行とは行儀(ぎょうぎ)のことで当該年間学校内外のおこないをよく見て一等、二等、三等に分つ。」とあり、つまり、ごく普通の平凡な児童と評価されていたわけである。

「相互の通信」欄の「発信者認印」欄に「鈴木」(多分担任の先生だろう。)の印を押して記載してある事項は「大正四年七月三十一日、少し元気がなくて声も小さい様ですから御注意下さい。」「同年十二月十五日、外の学科にくらべて手工科が劣る様ですからどうぞ御注意下さい。」「大正五年三月二十四日、声も大きく元気も出てきました。」とある。

これでみると、私が小学生当時図画手工が下手だったのは(今も下手だが)多少母親譲りかも知れぬ。私が小学校一年生のとき、あまり絵が下手だったので、母は夏休みなどに私に毎日絵日記を書かせた。半分以上は母が書いてくれたので、なかなかの傑作もあった。安東からの引揚げに際し持ち帰ることができなかったのは残念である。母は、その指導の甲斐あって、私が一年生のときに多少ともさまになる絵を書けるようになったのに気を許し、二年生になってから絵の指導を取り止めたら、私の通信簿の図画の成績が途端に六点(十点満点)に転落した。私が学校から返してもらった図画を見た母は、「これでよく六点もらえたね。」と嘆息したものである。