亡き母をしのんで

「亡き母をしのんで」と題して、昭和56年11月3日に亡くなった父・米田義昭が生前原稿用紙に残した文章を公開します

1 義昭から母へ(22.1.17付葉書。1.18消印)

 

昨夜六時無事に着きましたから御安心下さい。列車は京都を過ぎてからは普通列車になりましたから、静岡から戻るまでもなく焼津の驛にも停車しました。順調に行けば四時には着くのですが、米原の二つ手前の驛で急行待合はせの為二時間も停車して居たのです。それでも辨当を多く作って頂いて居たのでお腹は空きませんでした。大変おいしかったです。復員列車でしたから、シベリヤから引揚げて来た兵隊が沢山乗って居ましたが、皆親切で、座席には座れませんでしたが、リュックサックを整頓して場所をこしらえて呉れたので楽でした。切符は何も言はれませんでした。辨当箱は伯父(編注、父の兄米田正次のことと思う。)さんが廣島へ行かれるので預けませんでした。こちらは、お祖父様も伯父様(編注、母の兄曽田常徳)方も皆元気ですから何も心配入りません。(學校は二三日うちに伯父様(編注、右同)と静岡へ這入れるかどうか聞きに行くつもりです。)

 (注)昭和二一年一一月に旧満州国安東市から引揚げてきた私たち家族は、当時私が学校へ通えるような状態ではなかった。県立柳井中学校(今の柳高)に行くことなど、思いもよらぬことであった。私は、昭和二二年一月当時、働くことを決めていたわけではなく、さりとて学校には行けず、引き揚げの際に僅かに持ち帰った金で漫然徒食しており、父は父なりにいろいろ考えていたのだろうが、私がある日母に何気なく「明日から新学期だね。」と話しかけたら、母は、それまでいろいろ考えていたらしく「焼津に頼んでみようか?」と言ってくれた。私は、静岡の学校に行けるものなら望むところである。「そんなら聞いてみて。」と頼んだ。母が祖父母に手紙を出して、私を学校へやってくれるよう頼んだところ、祖父母は快諾してくれた。かくて私は生まれて初めて父母の膝下を離れて遊学することになったのである。当時、引揚者は上陸の際その申告によって無償で帰住先までの乗車券を一人一枚もらうことができた(通用期間半年程度?)が、私たちの帰住地は室津であったのに、一応遠くまでもらっておけというわけで焼津を帰住地と申告して焼津までの切符をもらって、柳井で途中下車扱いにしていたのである。その切符を持って焼津に行った。「切符は何も言はれませんでした。」とあるのは、何か文句を言われなければよいがと懸念していたのである。