亡き母をしのんで

「亡き母をしのんで」と題して、昭和56年11月3日に亡くなった父・米田義昭が生前原稿用紙に残した文章を公開します

4 義昭から母へ(22.1.24付手紙1.25消印)

お便り(編注、3の手紙)有難う御座いました。その後お変りはありませんか。美榮子や博正達も皆元気ですか。僕も全然変わりはありません。此の頃は魚が多く這入るので、それを家に持って帰ったり、海から水を汲んで来たり、氷を買いに行ったり、毎日一生懸命働いて居ます。勿論、お祖父さんも、お祖母さんも常徳伯父さん達も、大変忙しいです。食事は、朝と晝は芋の這入った固いお粥を三杯づつ、それに糠味噌大根ですが、晩は大概御飯三杯に何かの魚のお菜です。今迄の事を思ふともったいない様な氣がします。よく働いて食べるので、非常に美味しくて、何を食べてもすぐ肉になっていくような気がします。忙がしい仕事があった時なども、芋もふかしてくれますから、いくら働いてもお腹が空いてたまらぬと言う事は一回もありません。薄いお粥を腹一杯詰め込むのと違って(編注、室津ではそうだったのである。)御飯を丁度良い位に食べるのですから、とてもお腹の為に良いです。

二十日の朝、静岡に常徳伯父さんと行きました。すると、学務課(編注、静岡県庁)の係の者が言ふには、何等證據(証拠)になるものがないから、誓約書を書いて来いとのことでした。そして其の形式を教へて呉れました。つまり、安東中学校に在學(学)中であった事に間違ひなく、若し嘘であった場合には、何時退學されても不服は言はないと言ふ誓約なのです。そして、これを縣知事宛と學校長宛と二通書くのです。それから、静岡市には、縣立静岡中學校と静岡市立第一中学校と私立中学校の三つの中學校があるのです。成績表があれば、それによって適当な所へ世話するのですが、それがない為に、先方はまあ一中位が良いだろうと言ひました。勿論県立が一番良いのですが、これは日本でも優秀な中学校だから、成績表があればともかく、普通のものはひよこっと入れる譯にはいけないようです。通知表(編注、成績表)さへあれば此の日すぐに學校へ紹介され、簡単に入れて貰へるのですし、縣立にも這入れるかも知れなかったのにと思ふと残念でたまりません。これで此の日は帰りました。次は二十三日に来いと言はれました。それで誓約書を持って二十三日に行くと、今度は人が違って居て、先ずこれを預って學校の方に廻し、それから通知を出すから、其の時に来いと言はれました。そして今度は、焼津の者は大概藤枝の縣立志太中学校へ入れることになって居るがそれでも良いかと言ふので、定まって居るなら仕方ないが、なるべくなら一中へと頼んで来ました。通知は一週間位先とのことですから、何處の學校になるかわかりませんが、這入るのは先ず二月の事になるでせう。どうも役所の人のやり方は昔と同じで、一つもてきぱきして居ません。歯がゆい位です。一中に這入れたらと思って居ます。一中なら縣立の次ですから、縣内でも優秀な方です。どれか一つには必ず這入れるつもりです。

この新しい家(編注、祖父母が昭和二一年暮ころ新築した家)は思ったよりも餘程立派です。總木造ですから壁(編注、盛土による壁のこと。もちろん木の壁はあった。)は一つもありません。中々岩乗(なかなかがんじょう)さうです。木は杉です。新しいですから、家中とても綺麗で気持ちよいです。同封した間取図の通り、部屋は六畳一間で、それと同じ大きさの店があります。建具は殆どそろって、後は出窓もつける雨戸だけです。店の戸も、出窓も、ガラス戸にしたかったさうです。この家の場所は、お父様も御承知の通り、焼津で一番賑やかな通りで、驛への往き帰り、それから活動(編注、映画館)への往き帰りでうるさい程(ほど)人が通ります。ですから、店先に何を並べてもすぐに賣れてしまひます。ここは、田舎の方から野菜をかついで卸(おろし)に来ますが、此の前も、ネギを卸して貰って並べましたがすぐ賣れ、十二貫買ったのが今日あたりは殆どなくなりました。今主として並べて居るのはサバ、イカ、コンニャクです。サバは、此頃は親戚の船(編注、この中に明神丸もあった。私が明神丸の名を知ったのはこのころである。)が這入るので、三十貫、五十貫と買へます。此の前、三十貫買った時は、丁度しけつい(続)きの後だったものですから、一寸(ちょっと)店に賣りに出すと、賣れるは、賣れるは二時間ばかりの間に二十数貫賣れてしまひました。(以下略)

 

(注)私はこのようにして焼津での生活を詳細に報告した。

私は、安東の小学校で病気のため二年間休学したので、昭和二〇年八月の終戦当時は安東中学校二年生であり、同年三月同校一年生修了の際は、同級生より二年も年長のせいもあって、学年第二位の成績であった。その成績表や終戦時に発行を受けた在学証明書があれば、あるいは静中に編入することが可能だったかも知れないが、あいにく引揚の際に民主連盟と称する日本人の共産主義者のグループにあれこれ没収された巻添えで、一緒に没収されてしまっていたのである。(編注、この連盟のことについては六八ページ④参照)

私は、学校格差のことをあまりよく知らなかったが、県立静岡中学校と、私が後に転入した静岡市立第一中学校とは、実質的に天地の格差があった。それをあらかじめ知っていたならば、島根県学務課長などを歴任した忠叔父に泣きついて、何分の措置をお願いしたかも知れないが、当時の私は、とにかく学校に行けることで満足し、学校格差のことまではあまり深く考えなかったのである。それに、その一中でさえ、結局三年で卒業(本来旧制中学校だったが、学制改革時であり、新制中学校卒業の扱いをしてもらったのである。)し、学業を続けることはできなかったのだから、例え静中に入ったとしても、その後身である県立静岡高等学校(新制)に進むことはできない相談であった。

ついでに書くなら、私の一中当時は、まだ旧制の官立静岡高等学校があって、その学生が静岡市内を闊歩しており、私には、かなえられぬ夢として、ただあこがれていたものだった。