亡き母をしのんで

「亡き母をしのんで」と題して、昭和56年11月3日に亡くなった父・米田義昭が生前原稿用紙に残した文章を公開します

5 母から義昭へ(22.2.11付手紙。22.2.11消印)

今日は電報(編注、私が一中に転入できた旨の電報)を見て安心しました。先日の手紙で細い事は判り安心して居りましたが、でも、どうか知らんと毎日入学出来た通知の来るのを待っておりました。何卒元気でがんばって下さい。母はただ貴方の身体を案じて居ります。そして貴方の世に出る日を待って居ります。貴方が学校に通へるのも祖父母様のおかげですから、かならずかならず忘れない様に孝行して下さい。

貴方の手紙(編注、4の手紙)を見て、食事も充分に食べてるし、弟妹達にくらべて幸福です。私達は相変はらずオカユをすすって居ります。芋もあれから買はずに、白カユにつけ物ばかりでしたが、六日に、鈴木(編注、便所の汲み取りをしてくれていた農家)から、病気の芋が二十一円であるを知らせて来ましたので六貫買って好(よし)ちゃん(編注、父の姉土屋あきの次女上田芳子(又は好子)のこと。当時室津の家に同居していた。あの家は、土屋の伯母で生家でもあった。)と半分に分けましたので、此の節は芋を入れて美味しく食べて居りますが、其れも後二日ばかりでしまひます。好ちゃん(編注、なかなか生活力旺盛な人だった。その夫は当時シベリヤ抑留中で幼い二児があり、それを土屋の伯母が室津で同居していたのである。)は時々買ひに行って食べてますが、家では買ひに行く人もなし、なにしろお金の事を考へますと、芋も食べられませんのよ。大根も十一円になりました。何にもかも高くなるばかりです。何も買ひません。貴方が出てから、芋三貫と大根五貫買ったばかりです。七円の時の大根です。

芋も鈴木で十貫あると云ふたのですが、お金の事を考へて買へませんでした。もう芋も買はずに、白カユですませます。

子供達が可愛想と思ってますが、仕方ありません。

白い御飯も食べた事もありません。魚一匹口にした事もありません。大根を小さく切り、其れを御飯にまぜて、大根飯で食べさせます。御かずはつけ物です。カメにつけたのが少し美味しくなりました。此れでしたら、一日二十円位ひで暮らして行けると思ひます。

早く父サンが働いて下さると、其ればかり待って居ります。

母も一人身なら(編注、登志子を妊娠中でなかったらの意)柳井でもどこでも商賣にも行けるし、買物も出来ますが、今の身は思ふ様に動けず、残念でなりません。

春まで辛抱してお産をしたら、赤ん坊をおぶって働きに出る考へです。母は順江(としえ)(長女。終戦時小学校四年生。その年の一二月に死亡)の身がはりを産むつもりで、安東を出る時はハリキッて居りましたが、今は産む身のふ幸をなげいて居りますこんな時に産れて来ては順江もふ幸です。弟妹にくらべて自分の幸福を、貴方は祖父母にかんしゃしなくてはなりません。心よく働いて手伝いをして下さい。ただただ病気をしない様に気をつけなさいネ。

学校に通ふ様になったら、無理をしな様、何事もありがたいとかんしゃして暮らして下さいませ。

(注)①私は、昭和二二年二月に一中の二年生に転入することができた。本当ならそのとき旧制中学校五年生、あるいは旧制高等学校一年生(旧中四年生から旧高一年へ進級可能)のはずだから、小学校の時の二年休学を含めて、三学年遅れたわけである。

②安東出発の際、共産主義者グループの民主連盟は、一人三千円の携帯を許したが、父はその禁を犯して、その制限を超える金を所持品に隠匿した。これが検査でばれたため、一人千円の割合の携帯しか許されず他は没収、おまけに多少金目の所持品も没収された。我が家はかってなく貧窮のどん底に転落した。引揚後も格別の公私の援助はなかったので、母はこのどん底の家計を預っていたのであり。(編注、六八ページ④参照)その心労は察するに余りがある。父には、いわゆる闇商売でもうける才覚はなく、(なまはんかに手を出しかけて損をしたことがある。)父なりにいろいろ考えていたのではあろうが、母から見ると、父が不甲斐なく、毎日暗い思いで貧しい生活に耐えていたのである。

③母は、私の下の次男、三男と長女順江の三児を病気で失った。私は子供心にその母の悲しみを知っているが、順江が死んだとき私は一五才だったから、母の悲しみが痛いようによく分った。今、この手紙を読み返してみると、母は順江の身代りを生んで、その悲しみをいやしたいと思っていたことが分る。それにしても「こんな時に産れて来ては順江もふ幸です。」とまで書いてあるのには驚く。生れてくる子が女児であることを信じて疑わなかったのだろうか。順江に又会うことができるような望みをもっていたのだろうか。その順江の代わりの登志子は、不幸な生い立ちだったが、幸せな結婚をして二児を得ることができた。そのような前途の希望を当時もつことのできなかった母は「こんな時に生れて来ては順江もふ幸です。」と嘆いたのだった。

④焼津における私の生活は、私なりに苦労の連続ではあったが、室津の悲惨な生活に比べると幸福の一語に尽きた。その幸せを両親や弟妹に分け与えることのできない悲しさ、口惜しさが最大の不幸であり、私は母の手紙を読んでは泣いた。また、母が恋しかった。

⑤以下紙面の都合により、私の手紙は、母の手紙の意味が分る程度にとどめ、なるべく省略する。