亡き母をしのんで

「亡き母をしのんで」と題して、昭和56年11月3日に亡くなった父・米田義昭が生前原稿用紙に残した文章を公開します

(注)

①この手紙によると、母は私が依頼した上衣と合羽だけを送ったのであろう。遊学先の息子の好きな食物を一緒に入れることを思わない母がどこにあるだろうか。それだのに、母は、大根の切干も入れられないと嘆いているのである。末尾近くの「一円」も「十円」「百円」の誤字ではない。何度読み返しても「一円位ひでも」と書いてある。これは、「アメ一ツでも」と対比しても、母の誤記でないことも明白である。そのころなら、一個一円のアメもあったのだから。当時の室津の生活は、これほどまでに貧しかったのである。

②忠叔父は、京城帝大を卒業し、高等試験行政科(いわゆる「高文」に合格していた。だからこそ、光子叔母と結婚した昭和一七年当時は、朝鮮総督府の出先である○○道(日本の県に当たる)の外事課長であり、終戦後、母の生前中に既に島根県大阪府の各課長を歴任し、いわば曽田家のホープであった。米田家には、安東で食料品卸商を経営し、かなり成功していた福田菊次郎伯父のほかには大した親戚がなかった。だから、母の夢は私が忠叔父のようになることだったのである。私は高等試験司法科の後身である司法試験に合格したので、「高文合格」までは母の夢をかなえたことになる。もちろん、その後の経歴は忠叔父に遠く及ばないが、この母の夢を今読み返すとき、感慨深いものがある。当時、博正はまだ幼なかったから、母が博正にどんな夢を託したかどうかは分からないが、博正も、高文合格に準ずる道を歩みつつある。私を含め二人の子が、「忠(叔父)の様になって下さい。」との夢を実現し、又は実現しつつあることになる。

③母の手紙は、いつもそうだったが、父に批判的だった(稀に同情的なこともあったが。)この態度は母の死に至るまで変ることがなかった。父が母の遺した子供全部を立派に成人させ、再婚もしなかった事実からみても、父は、母が感じていたほど無能でもなく、無情でもなかったと思う。ただ惜しむらくは、父は「知らしむべからず、寄らしむべし」のところがあって、母と率直に語り合うことはなかったし、内心どう思っていたにしろ、口に出して母を慰め、励まし、いたわることがなかった。そして、私からみても、父が一体何を考えているのか分からないことが多かった。母が、極度の貧困に対する苦しさから私をいわば心のささえにし、父についての愚痴を語りかけることによって心の憂さ晴らしをしたのも無理からぬことであった。そして、当時、私は常に母の味方であった。母が幼い子を残し、若くして死んだことの不幸はもちろんのことながら、後年、あの苦しかった当時を父と共に回顧し、共に昔を懐かしんだり、あるいは笑い話のように語り合う機会の与えられなかったことは、母にとっても、父にとっても不幸なことであった。

④「してはいけない事は…」は次のような経験を指している。昭和二一年一〇月安東駅を汽車で出発するに際し、安東を支配していた八路軍(今の中華人民共和国の正規軍であるが、当時は国民党政府の軍が正規軍であったため、中国共産党の軍は八路軍と呼ばれていた。)の占領軍としての力を背景に、民主連盟と称する日本人の共産主義者グループ(三一ページ、四一ページ②参照)が在留邦人に対し強い実権を持ち、同連盟の指令により、所持金は一人三千円(日本円、満州国円の区別なし。)とされ、この指令に違反すると所持金は全部没収すると脅されていた。しかるに、父はたかをくくって(母に言わせると「自分の勝手な考えを付けて」)、母の着物の襟に千円札を縫い込ませるなどして、この制限を超える数万円の現金を持ち出そうとした。同連盟による身体検査は厳重を極め、検査が九分通りは無事に済んだところで遂に(同連盟の一員であった若い女に隠匿金を発見されてしまった。(その女は今ならさしづめ女性共産党員というところか。女だけに細かいところにまで検査の目が届いたのが、私たち一家にとって不幸であった。)さすがに、所持金の全部没収はされなかったが、罰として、所持金を一人千円に制限された上、比較的上質の衣類などは没収されてしまった。このようなことがなければ、引揚げ後の生活が、あれほどまでみじめではなかったはずであり、母はこのことに強いショックを受けていた。隠匿することを決めたのは父であり、母はこれに強いて反対せず、具体的隠匿行為に加担したのだから、いわば幇助の責任は免れないわけだが、この「たかをくくる」という父の性質は昔からのもので、(その後も必ずしも改まっていないふしがあり、母は私に、そういうことをしないよう強く戒めたのである。

⑤博正は、夜尿症を除いては全く手のかからない子だった。それだのに、なぜか、数あるきょうだいの中で、博正だけが幼いときから夜尿症にとりつかれ、母を悩ませた。母のみならず、父や母が病床に伏し、更には死去してから私が室津を去るまでの間、母代わりを勤めた私をも悩ませた。その対策として、夕食後は原則として水分摂取厳禁、寝る前に何度もトイレに行かせる。母(あるいは父や私)が寝る前に博正を起こしてトイレに行かせる。夜中に母などが目を覚ましたときにも、同様博正を起こす。そんな努力をしても、毎晩というわけではないが、博正の寝小便は続いた。いつから始まったのか記憶がないが、私が焼津に行く前からであったことは間違いない。いつごろ治ゆしたのかも記憶がないが、かなり長期間続いた後、自然になおった。もちろん博正自身も、幼いながら恐縮し、他の家族に対する手前恥しい思いをして可哀そうだったが、母も「博正に泣かされます。」と愚痴をこぼすほどだったのである。

⑥「貴方がした電気」というのは、私が昭和一三年五月から一五年四月まで二年間肺門リンパ腺炎のため休学していた当時に受けた電気療法のことである。私はその間一三年一一月ころから一四年九月ころまで室津に転地療養した。父は安東に残って福田家で食事の世話をしてもらい、母、私、順江、美栄子の四人が室津で暮した。最初の二、三ヶ月瀬戸の尾上(みさを)伯母の家を借りて、伯母は当時健在であった祖母とも(父の母)と共に住み、後に私たちが今の室津の家に住んで、祖母と伯母が瀬戸の家に移った。そのころ、室津に「野一式」と称する電気療法をする治療所があって、私の病気を治すためにわらをもつかむ思いの母は、私にそれを受けさせた。私の病気は軽いものであったから、医師から投薬を受けるだけで、あとは栄養のある物を食べてぶらぶら遊んでいるだけという呑気なものだったが、通学することはできなかった。だから、母は私を治そうとして必死だったのである。私にしても、二年休学して元の同級生や一級下級の者の下級になり、二年下級の者と同級生となることを余儀なくされたぐらいであるから、子供心にも残念で早く治りたい一心でその療法を受けた。茶碗ほどの容器に熱湯を入れて密閉し特殊な装置(電池付)から導いた電流をその容器に通じ、熱と電流を背中の各所に押し当てるものであった。両足をかなり高温の湯の入った容器に突込み、その容器に同様の電流を通すのと、大別して二通りのコースがあり、私はその二通りを受けた。電流の強さはスイッチで調節した。体がかなりしびれるほどの強さから、さほど感じないほどの強さまで自由に調節できた。それが利いたからかどうかは知らぬが、私は全快した。母は、室津から安東に帰るときには、その器具一式を購入し、安東でも母に寄るその療法が続けられた。室津に引揚げた当時は、まだこの治療所があった。母は、またしても、わらをもつかむ思いで、博正にこの療法を受けさせたかったのであろう。何しろ、大概の病気に利くという結構な療法だった。

⑦ついでに書いておくと、私は幼時病弱であったために、母には随分苦労させた。その半面、母は他の弟妹(次男、三男は早くに死んだから)よりすばぬけて年長の私を頼りにしてくれた。私と母との結びつきは、それは、それは、固いものだった。だから、私たちの話はいわゆるツーカーで通じた。それは、この手紙の意味を私以外の者に一応理解してもらうために、これだけ長い注釈を要することでも分るであろう。私は、ほとんど文字どおりに、母の分身であり、母と一心同体であった。母の没後約三〇年を経ても、母と一心同体であった思い出は薄れぬ。こう書いていると、又涙がとめどなく流れる。悲しい。しかし、ある意味では甘い涙である。そして、母がたまらなく恋しくなる。この手紙にあるような悲惨な時期に立ち戻ってもよいから、母に会いたい。こんな風にして手紙の往復をしたいと思う。私が、多忙を極めると公務の合間に、この往復書簡を編さんする気になったのは、一つには母のことをよく知らない弟妹に伝え、また妻子に母のことをよく知ってもらいたいと思う気持からであり、一つにはタイムマシンであの時代に立ち戻ったような、甘い悲しみに浸ることができるからである。考えてみると、私はこの往復書簡を、宝物として大事に保存してきたのに、母の死後読み返したことがなかった。それは、読み返さなくてもほとんど記憶しているような気がしていたからであり、母を失った悲しみから遠ざかりたいという気もあったからかも知れない。しかし、読み返してみると、さすがに忘れていたがたくさんあって、それを思い出したし、それを思い出しながら悲しみにどっぷりとひたりた。私はまだまだ若いつもりだが、人生の半ばは過ぎた。まして、私には持病があるので、今後どれだけ生きられるかは、自分にも分らない。そんなせいもあるのかも知れないが、近ごろ私は無性に母が恋しい。一日に一度は母のことを思い出して涙ぐむ。まして、これを書いているときは、なお更のことである。十七、八才当時に戻ったつもりで、「お母さん」「お母さん」と心の中でつぶやきながらこれを書いている。初めは、往復書簡を筆写するだけにとどめるつもりだったが、どうしても必要と思われる注釈を書いていると、あふれてくる感情を抑えきれなくなる。やむを得ないことである。

なお、母はこんなことも言っていた。「男というものは、仕事があるから、日ごろ母親のことを思い出すことはないでしょうよ。何事かあったときに、思い出すだけよ。」と言っていた。確かに、私がなりふり構わず司法試験の受験勉強をしていたときは、母のことをあまり思い出さないというか、思い出さないようにしていた。しかし、法務省の掲示を見に行って合格を知ったとき、私は喜びの瞬間激しい悲しみに襲われた。「一番喜んでくれるはずの母がいないのに、試験に受かったってつまらない。」「母が生きていたら…」そんな思いが一時にこみあげてきて、涙をこぼしながら歩いた。国電に有楽町で乗るべきところを、東京駅八重洲口まで、涙をぬぐおうともしないで歩いた。母のその言葉も思い出された。今は仕事がないどころか、多忙を極めているのだが、それにもかかわらず毎日母のことを考えているのは、私がある点では子供に帰ったからかも知れない。帰りたいと思っているからかもしれない。思えば母の子どもに対する愛情は、無私のものであった。私は、母の思惑を気にすることなく甘えた。そんな関係が成立するのは、子どもが成人に達するまでの親子のことに限られるのかも知れないが、そんな無私な愛情に限りないあこがれをもつ。