亡き母をしのんで

「亡き母をしのんで」と題して、昭和56年11月3日に亡くなった父・米田義昭が生前原稿用紙に残した文章を公開します

あとがき

一 母の子供たちに対する愛情に分け隔てのあろうはずがないが、満一才の誕生日の翌日に母を失った登志子は論外としても、美栄子でさえ母の亡くなったときまだ九才であった。私はそのとき一八才だったから、結果的には、私が最も長い期間母の慈愛のもとに育てられたことになる。その意味において、私は弟妹に比べはるかに幸せだったと思っている。その私に対する母の手紙を弟妹に示すことは、弟妹をうらやましがらせることになって酷かも知れない。けれども、その手紙には弟妹のことも書いてあるし、弟妹にとっても、文章に残ったものとして母を知る手がかりはその手紙しかないのだから、やはり示した方がよいと思ってこれを書いた。

 

二 母が私に「貴方の世に出る日を待って居ります。」(三五ページ)と書いたとき、何をもって「世に出る。」と考えていたのか分らないが、まさかあの時点でさほどの高望みをしていたわけではあるまい。私は今、山口地方検察庁次席検事の地位にある。もとより微官にすぎず、その小成に安んずる気はないが、母の望んだとおりの「世に出」たことにはなるのだろうと思う。母の期待に添うことができて嬉しい。そして、弟妹たちもそれぞれ成人し、幸福な家庭生活を営んでいる。今母が生きていたら、さぞ喜んでくれたと思う。このような結果を願ったではあろうが、決して現実性のある望みとすることはできず、ただ漠然と子供たちの幸せを祈りつつこの世を去った母があわれでならぬ。せめて一日でも、今日のこの日を母に見せ、これまでのことを語り聞かせやれるものならと思わぬことはないが、それはせんない望みである。若しあの世とやらがあるものなら、私がこの世を去ったとき、真先に母に会って、「お母さんの播いた種は、みんな見事に成長しましよ。孫もできましたよ。お母さんの一生は、決して無駄はありませんでした。」と報告したい。それがかなわぬにしても、私がこの世を去ったら、母と同じ墓で、母と共に静かに眠り、あの室津の穏やかな海と山を一緒に眺めたい。

三 それはさておき、私が今述べた意味で世に出ることができ、母の期待に添うことができたのは、両親と祖父母は別格として、いつに曽田忠叔父・光子叔母夫婦の情けによるものである。私が叔父・叔母にどんなに両親のごとき愛情をもっていつくしみ、はぐくまれたか、その詳細はことには書かぬ。妻子には常に事こまかに語り聞かせてきた。私は忠叔父・光子叔母の御恩を終生忘れない。そして、妻子にも、そのことを終生忘れないで欲しいと言い聞かせている。この機会にその御恩のことを特筆しておく。

 

四 忠叔父・光子叔母の夫婦の世話になったのは、私だけではない。他にもいろいろお世話になったことと思うが、是非とも書き残しておきたいことは、私が忠叔父・光子叔母夫婦のお蔭で司法修習生となり、検事になることができたために、当時としてはかなりの金を父に仕送りをすることができたことである。美栄子、博正らが進学できたのはそのためとまでは言わぬが、若しその仕送りがなかったら、美栄子も博正も、もっともっと貧しい、みじめな学生生活をしなければならなかったはずである。父の仕送りの金の出所の一部は私であり、私にその仕送りができたのは、忠叔父・光子叔母夫婦のお蔭である。弟妹たちは、このことを決して忘れてはいけない。以下参考までに仕送りの金額なども書いておく。

 

五 定期的な仕送りの開始は昭和三〇年四月一五日であり、毎月五千円であった。私が司法修習生になった直後である。弟妹を私の扶養家族とし、また扶養控除を受ける扱いとしてもらったので、私が同僚と同じ手取りで、その中から仕送りをしたのではないが、当時五千円は私にとって大金であった。修習生の本俸が月額一万二千円だったと思う。従って、毎月五千円の仕送りは、美栄子を柳井高校に通学させるについて少なからぬ助けとなったはずである。

この五千円の仕送りは毎月かかさず続け、昭和三一年四月から七千円に増額した。この当時、私は忠叔父・光子叔母の家を出て独立していた。同年三月からの独立だが、司法修習生になってからも、私が一年近く忠叔父・光子叔母方に置いていただいたのは、私の甘えからであった。かくてはならじと独立し、その後はいわば心の寄りどころとして、引続き忠叔父・光子叔母の恩恵を受けたが、経済的に独立したからには、もちろん修習生の給料ですべてを賄わねばならぬ。私は、三一年三月から西武新宿線下井草駅近く(杉並区八成町三五小俣方となっている。)の学生アパートの一室(三畳一間)を月三千円で借り受け、自炊生活をを始めた。愚痴をこぼすなら、この当時私が他の修習生と全く同じ条件で給料をもらい、それを自分のことだけに使うことができていたとしたら、最近の独身貴族ほどではないまでも、いわゆる若さを楽しむ生活をもっとすることができたはずである。若干の扶養家族手当をもらっていたとはいいながら、独立した上、毎月の仕送り額を二千円増額して七千円にするのは、きびしい耐乏生活を強いられるものであった。それをあえてしたのは、この三一年から、美栄子、博正の二人が柳井高校に通学するようになったためであった。この当時、この毎月七千円の仕送りがなかったら、二人が高校に通学することが可能だったろうか。二人共、貧しい学生生活を送ったことは私もよく話を聞いた。しかし、その仕送りがなかったならば、例え二人の通学が可能であったとしても、更に貧しい、みじめな高校生活を送らなければならなかったことは疑う余地のないところである。当時、父の収入は少なかった(と父から聞いている。)

私がそのようにして仕送りをしたのは、父・弟妹に対する愛情もさることながら、子供たちのことを考えて、死ぬにも死ねぬ思いを抱いてこの世を去った母の遺志を継ぐ気持ちが大きかったからだ。それがせめてもの母への孝養だと思った。

それにしても、私が下級公務員や下級会社員などであって、例えその気があっても、自分が生活するのが精一杯、あるいは自分自身の生活もできかねる状態だったら、月千円といえども仕送りができなかっであろう。その仕送りを可能ならしめたのは、何度も繰り返すようだが、忠叔父・光子叔母の情けのお蔭であり、私が司法修習生になり、やがて検事にならなかったら、私がいかに耐乏生活をしても仕送りをすることはできなかった。

 

六 この耐乏生活のことにも少し触れておく。私は昭和三一年四月九日から三三年八月一日まで毎月七千円を父に仕送りし、たまたま父と会った月にはこれを手渡した。私は几帳面な性格だから、生活の歴史を残す意味で書留郵便物受領証を丹念に保存し、小づかい帳に記録している。だから、以上のように、また以下のように、正確なことを書くことができる。漱石の「道草」三十一、三十二に、健三(漱石自身がモデル)の父が古い書類一式をひとまとめにして取っておいた話が出てくるが、私は自分の生活記録とするほかに他意はないけれども、古い書類を何でも取っておく点では似たような話である。

さて、その仕送りは三三年九月一七日送金分から五千円に減額されている。その年の一〇月二七日黒田寛子と結婚することが正式に決まり、その準備をしなければならないし、結婚後の生活のことも考えたからだ。もとより、挙式・披露宴について父の援助は受けぬ。結婚後の生活について寛子の実家からの物質的援助は受けぬ。私がもらう給料の中から毎月五千円を仕送りし、その残りで生活することが寛子との婚約時からの約束であった。かけ出しの検事は薄給であり、その中から弟妹分の若干の天引をした残りで二人の生活をするのは、寛子にとって健気な覚悟を要することであった。例えば、ある朝二人で食事をしているとき、私のおみおつけの中に卵の黄身があり、寛子のそれの中には白身しかないことに気づいたことがある。私は思わず「キミ(君)のところに、キミ(黄身)がないね。」と言ったが、つまり一つの卵を二人で食べるような生活だったのである。

(続く)

10 (義昭より母へ 2.24付手紙。消印不明)

お手紙有難う御座いました。(編注、この「御手紙」は、7の手紙を指している。つまり、6の私の手紙は、私からの転入通知として一方的に書いたものであり、5の母の手紙は、6の手紙に先き立ち、私がその転入を電報で知らせたことに対する返事として書いたものだから、5と6は往復書簡ではなく、ほぼ同じ日に書いて、入れ違いに相手に届いている。そして、私は5の手紙に対する返事として8の手紙を受取る前に、6の私の手紙に対する返事として7の手紙を出しているのである。そして、7に対する返事がこの10である。この10を書いたときには、9の父の葉書はまだ私に届いていなかったことがその内容で分る。)(中略)今日小包が着きました。随分長くかかるものですね。合羽があって本当に有難いと思ひます。十六日附の手紙と十七日送った小包は届きましたか。(中略)僕の服のことは何も心配なさらないで下さい。どんな物でも辛抱しますから。(中略)此の前大阪の叔父さんが来られた時、お父さんが突然府庁に来たのでびっくりしたと言って居ました。家はまた見附からずに電車で通っているようです。博正の寝小便には困ったものですね。誰に聞いても、皆あまり経験ないらしく、よくわかりません。何かなほる方法があるとよいですね。毎晩起きてさせるのが大変ですね。(以下略)

9 (父から義昭へ 2.22付葉書 2.23消印)

十六日付手紙(編注、8の手紙)昨日拝見、元気で通学している由安心した。御祖母様、御祖母様、伯父様方の御蔭げだと感謝の念禁ずる能はず。小包は今朝慥(たしか)に受取りました。切干等子供達珍しく、美味しいのでお喜びで頂きました。(以下略)

8 (義昭から母へ 2.16付手紙 消印不明)

お便り(編注、この「お便り」は5の手紙を指している。8の手紙を出した後、7の手紙を受取っていることが、内容をよく調べて分った。だから8は6の次に書くべきだった。しかし、書き直すのはたいへんだからこのままにしておく)

有難う御座居ました。相変わらずお粥につけ物との事、弟妹達が本当に可愛想だと思ひます。それにつけても僕はもったいない程幸福です。(以下略)

今日は日曜日ですから、朝からお傳ひをしました。そして昼から小包を荷造りして頂きました。(中略)弟妹達があまり可愛想ですから、お願ひして芋切干を少し入れて頂きましたから、少しずつでも食べて下さい。それは伯父さんが浜松で一貫目九十円で買って来られたので、今店で売って居ます。(以下略)

 

(注)

①この手紙によると、母は私が依頼した上衣と合羽だけを送ったのであろう。遊学先の息子の好きな食物を一緒に入れることを思わない母がどこにあるだろうか。それだのに、母は、大根の切干も入れられないと嘆いているのである。末尾近くの「一円」も「十円」「百円」の誤字ではない。何度読み返しても「一円位ひでも」と書いてある。これは、「アメ一ツでも」と対比しても、母の誤記でないことも明白である。そのころなら、一個一円のアメもあったのだから。当時の室津の生活は、これほどまでに貧しかったのである。

②忠叔父は、京城帝大を卒業し、高等試験行政科(いわゆる「高文」に合格していた。だからこそ、光子叔母と結婚した昭和一七年当時は、朝鮮総督府の出先である○○道(日本の県に当たる)の外事課長であり、終戦後、母の生前中に既に島根県大阪府の各課長を歴任し、いわば曽田家のホープであった。米田家には、安東で食料品卸商を経営し、かなり成功していた福田菊次郎伯父のほかには大した親戚がなかった。だから、母の夢は私が忠叔父のようになることだったのである。私は高等試験司法科の後身である司法試験に合格したので、「高文合格」までは母の夢をかなえたことになる。もちろん、その後の経歴は忠叔父に遠く及ばないが、この母の夢を今読み返すとき、感慨深いものがある。当時、博正はまだ幼なかったから、母が博正にどんな夢を託したかどうかは分からないが、博正も、高文合格に準ずる道を歩みつつある。私を含め二人の子が、「忠(叔父)の様になって下さい。」との夢を実現し、又は実現しつつあることになる。

③母の手紙は、いつもそうだったが、父に批判的だった(稀に同情的なこともあったが。)この態度は母の死に至るまで変ることがなかった。父が母の遺した子供全部を立派に成人させ、再婚もしなかった事実からみても、父は、母が感じていたほど無能でもなく、無情でもなかったと思う。ただ惜しむらくは、父は「知らしむべからず、寄らしむべし」のところがあって、母と率直に語り合うことはなかったし、内心どう思っていたにしろ、口に出して母を慰め、励まし、いたわることがなかった。そして、私からみても、父が一体何を考えているのか分からないことが多かった。母が、極度の貧困に対する苦しさから私をいわば心のささえにし、父についての愚痴を語りかけることによって心の憂さ晴らしをしたのも無理からぬことであった。そして、当時、私は常に母の味方であった。母が幼い子を残し、若くして死んだことの不幸はもちろんのことながら、後年、あの苦しかった当時を父と共に回顧し、共に昔を懐かしんだり、あるいは笑い話のように語り合う機会の与えられなかったことは、母にとっても、父にとっても不幸なことであった。

④「してはいけない事は…」は次のような経験を指している。昭和二一年一〇月安東駅を汽車で出発するに際し、安東を支配していた八路軍(今の中華人民共和国の正規軍であるが、当時は国民党政府の軍が正規軍であったため、中国共産党の軍は八路軍と呼ばれていた。)の占領軍としての力を背景に、民主連盟と称する日本人の共産主義者グループ(三一ページ、四一ページ②参照)が在留邦人に対し強い実権を持ち、同連盟の指令により、所持金は一人三千円(日本円、満州国円の区別なし。)とされ、この指令に違反すると所持金は全部没収すると脅されていた。しかるに、父はたかをくくって(母に言わせると「自分の勝手な考えを付けて」)、母の着物の襟に千円札を縫い込ませるなどして、この制限を超える数万円の現金を持ち出そうとした。同連盟による身体検査は厳重を極め、検査が九分通りは無事に済んだところで遂に(同連盟の一員であった若い女に隠匿金を発見されてしまった。(その女は今ならさしづめ女性共産党員というところか。女だけに細かいところにまで検査の目が届いたのが、私たち一家にとって不幸であった。)さすがに、所持金の全部没収はされなかったが、罰として、所持金を一人千円に制限された上、比較的上質の衣類などは没収されてしまった。このようなことがなければ、引揚げ後の生活が、あれほどまでみじめではなかったはずであり、母はこのことに強いショックを受けていた。隠匿することを決めたのは父であり、母はこれに強いて反対せず、具体的隠匿行為に加担したのだから、いわば幇助の責任は免れないわけだが、この「たかをくくる」という父の性質は昔からのもので、(その後も必ずしも改まっていないふしがあり、母は私に、そういうことをしないよう強く戒めたのである。

⑤博正は、夜尿症を除いては全く手のかからない子だった。それだのに、なぜか、数あるきょうだいの中で、博正だけが幼いときから夜尿症にとりつかれ、母を悩ませた。母のみならず、父や母が病床に伏し、更には死去してから私が室津を去るまでの間、母代わりを勤めた私をも悩ませた。その対策として、夕食後は原則として水分摂取厳禁、寝る前に何度もトイレに行かせる。母(あるいは父や私)が寝る前に博正を起こしてトイレに行かせる。夜中に母などが目を覚ましたときにも、同様博正を起こす。そんな努力をしても、毎晩というわけではないが、博正の寝小便は続いた。いつから始まったのか記憶がないが、私が焼津に行く前からであったことは間違いない。いつごろ治ゆしたのかも記憶がないが、かなり長期間続いた後、自然になおった。もちろん博正自身も、幼いながら恐縮し、他の家族に対する手前恥しい思いをして可哀そうだったが、母も「博正に泣かされます。」と愚痴をこぼすほどだったのである。

⑥「貴方がした電気」というのは、私が昭和一三年五月から一五年四月まで二年間肺門リンパ腺炎のため休学していた当時に受けた電気療法のことである。私はその間一三年一一月ころから一四年九月ころまで室津に転地療養した。父は安東に残って福田家で食事の世話をしてもらい、母、私、順江、美栄子の四人が室津で暮した。最初の二、三ヶ月瀬戸の尾上(みさを)伯母の家を借りて、伯母は当時健在であった祖母とも(父の母)と共に住み、後に私たちが今の室津の家に住んで、祖母と伯母が瀬戸の家に移った。そのころ、室津に「野一式」と称する電気療法をする治療所があって、私の病気を治すためにわらをもつかむ思いの母は、私にそれを受けさせた。私の病気は軽いものであったから、医師から投薬を受けるだけで、あとは栄養のある物を食べてぶらぶら遊んでいるだけという呑気なものだったが、通学することはできなかった。だから、母は私を治そうとして必死だったのである。私にしても、二年休学して元の同級生や一級下級の者の下級になり、二年下級の者と同級生となることを余儀なくされたぐらいであるから、子供心にも残念で早く治りたい一心でその療法を受けた。茶碗ほどの容器に熱湯を入れて密閉し特殊な装置(電池付)から導いた電流をその容器に通じ、熱と電流を背中の各所に押し当てるものであった。両足をかなり高温の湯の入った容器に突込み、その容器に同様の電流を通すのと、大別して二通りのコースがあり、私はその二通りを受けた。電流の強さはスイッチで調節した。体がかなりしびれるほどの強さから、さほど感じないほどの強さまで自由に調節できた。それが利いたからかどうかは知らぬが、私は全快した。母は、室津から安東に帰るときには、その器具一式を購入し、安東でも母に寄るその療法が続けられた。室津に引揚げた当時は、まだこの治療所があった。母は、またしても、わらをもつかむ思いで、博正にこの療法を受けさせたかったのであろう。何しろ、大概の病気に利くという結構な療法だった。

⑦ついでに書いておくと、私は幼時病弱であったために、母には随分苦労させた。その半面、母は他の弟妹(次男、三男は早くに死んだから)よりすばぬけて年長の私を頼りにしてくれた。私と母との結びつきは、それは、それは、固いものだった。だから、私たちの話はいわゆるツーカーで通じた。それは、この手紙の意味を私以外の者に一応理解してもらうために、これだけ長い注釈を要することでも分るであろう。私は、ほとんど文字どおりに、母の分身であり、母と一心同体であった。母の没後約三〇年を経ても、母と一心同体であった思い出は薄れぬ。こう書いていると、又涙がとめどなく流れる。悲しい。しかし、ある意味では甘い涙である。そして、母がたまらなく恋しくなる。この手紙にあるような悲惨な時期に立ち戻ってもよいから、母に会いたい。こんな風にして手紙の往復をしたいと思う。私が、多忙を極めると公務の合間に、この往復書簡を編さんする気になったのは、一つには母のことをよく知らない弟妹に伝え、また妻子に母のことをよく知ってもらいたいと思う気持からであり、一つにはタイムマシンであの時代に立ち戻ったような、甘い悲しみに浸ることができるからである。考えてみると、私はこの往復書簡を、宝物として大事に保存してきたのに、母の死後読み返したことがなかった。それは、読み返さなくてもほとんど記憶しているような気がしていたからであり、母を失った悲しみから遠ざかりたいという気もあったからかも知れない。しかし、読み返してみると、さすがに忘れていたがたくさんあって、それを思い出したし、それを思い出しながら悲しみにどっぷりとひたりた。私はまだまだ若いつもりだが、人生の半ばは過ぎた。まして、私には持病があるので、今後どれだけ生きられるかは、自分にも分らない。そんなせいもあるのかも知れないが、近ごろ私は無性に母が恋しい。一日に一度は母のことを思い出して涙ぐむ。まして、これを書いているときは、なお更のことである。十七、八才当時に戻ったつもりで、「お母さん」「お母さん」と心の中でつぶやきながらこれを書いている。初めは、往復書簡を筆写するだけにとどめるつもりだったが、どうしても必要と思われる注釈を書いていると、あふれてくる感情を抑えきれなくなる。やむを得ないことである。

なお、母はこんなことも言っていた。「男というものは、仕事があるから、日ごろ母親のことを思い出すことはないでしょうよ。何事かあったときに、思い出すだけよ。」と言っていた。確かに、私がなりふり構わず司法試験の受験勉強をしていたときは、母のことをあまり思い出さないというか、思い出さないようにしていた。しかし、法務省の掲示を見に行って合格を知ったとき、私は喜びの瞬間激しい悲しみに襲われた。「一番喜んでくれるはずの母がいないのに、試験に受かったってつまらない。」「母が生きていたら…」そんな思いが一時にこみあげてきて、涙をこぼしながら歩いた。国電に有楽町で乗るべきところを、東京駅八重洲口まで、涙をぬぐおうともしないで歩いた。母のその言葉も思い出された。今は仕事がないどころか、多忙を極めているのだが、それにもかかわらず毎日母のことを考えているのは、私がある点では子供に帰ったからかも知れない。帰りたいと思っているからかもしれない。思えば母の子どもに対する愛情は、無私のものであった。私は、母の思惑を気にすることなく甘えた。そんな関係が成立するのは、子どもが成人に達するまでの親子のことに限られるのかも知れないが、そんな無私な愛情に限りないあこがれをもつ。

7 母から義昭へ(手紙の日付なし。消印は22.2.19?)

 お手紙(編注、6の手紙)ありがたうございました。

種々苦勞して學校へ入學出来、ほんとによかったですネ。室津も二三日前五分位雪がつもり、こんな事は今までにない事だそうです。毎日ゝガタゴトと風が吹きまくって居ります。こんな寒い日に、お祖父様はどんなにかお骨折りの事と思ひます。貴方も風を引かない様心を引きしめて下さい。寒いのも今少しの辛抱です。これからは暖になるばかりですから、其れだけでも元気が出ます。

小包一昨日送りました。洋服はありませんから、父さんの着てるのを送りました。私のとして配給受けた服は、貴方が暖になれば着なければなりませんでせう。上下貴方に合う様に仕立てなをして送ります。學校で配給があれば其れを着てもよいが、ない時は春になり通学に着る物がないでせう、貴方が着て来た洋服(編注、安東から着て来たの意か)は父サンが夏に着なくてはならないし、どう考へても送る品はありません。下が手に入りましたら送ります。お金でもあれば古着でも買へますが、、、(編注、当時の父母は、もちろん古着を買う余裕はなかった。)お魚買入れの時は雨ガッパを着て行く様にしなさい。あれが一番よいです。私も手紙を見た時、服がないのでカッパを送るつもりにして居りましたのよ。○○(編注、二字判読不能)が来て上だけ入れておきました。辛抱して下さい。大根切干少しでも入れたらと思ひましたが、私達が大根より他に食べられない有様ですから送りません。今一貫目十三円になり大根も買はれません。

父サンが、あれからクビのオデキが快くならず、一つが快くなると又一つ出来、三ツ目を先日手術しました。毎日医者通ひで注射をしたりします。又此れから後出来なければよいと思って居ります。お父サンは弱いからだめです。オカユを食べる度に玉の様な汗は出ますし、寒いゝでコタツに入り込んで考へて、子供を叱るのが一日の仕事です。やる事が下手です。あまりぶらぶらしてるので、切符があるし(編注、一四ページ末尾以下に記載の焼津行き、柳井途中下車で、まだ通用期間の残っていた切符のことである。)大阪に行く様にすヽめて、働く所でもないか忠(編注、当時忠叔父は大阪府の賠償課長か渉外課長だった。)の所に様子を見にやりました。別によい話しもないらしいです。お父サン一人でも働きに出る所があればよいと思ひます。

忠が父サンの事、何にか話してましたか。貴方も一心に勉強して忠の様になって下さい。大阪の方に未だ家がないのでせうね(編注、忠叔父は島根県の課長から大阪府の課長に転任した直後は、家がなくて、光子叔母の旧友方に間借りをしていたように聞いているが、そのことを指したものか。)文チャン(編注、父の兄米田正次の長男米田文雄で、私より三、四才年長)も福田(編注、父の姉福田たま、その夫福田菊次郎)の方に働きに明日行きます。

七(ひつ)チャン(編注、父の姉土屋あき(その夫は大正年代にいわゆるスペイン風邪で早逝)の長男土屋七次のことで、三六ページの上田芳子の弟。当時シベリヤから復員して、土屋の伯母、上田芳子らと共に室津で同居していた。なお、文ちゃんも、復員ではないが、正次伯父一家(編注、文ちゃんは、正次伯父の先妻の子で、他に正次伯父、その後妻と仁(ひとし)、明男、つう坊、たあ坊、の四児がいた。)が、私たちの引揚前室津のあの家に住んでおり、(登志子が生れると、同年の八月に純子が生れ、後妻の子は美栄子以下私の弟妹と同数で年令もほぼ対応していた。)私たちが引揚げて来てからも、同一家は昭和二四年ころまで同居していた。あの家は、正次伯父にとっても生家だったのである。)

文ちゃんの店(室津の家の道路に面した部屋を店にして、主として子供相手の駄菓子、玩具類を売っていたのである。)をお父サンが引き受けてやります。品物は今売れ残り物ばかりです。正月用の品物ばかりで、売れる物は文チャンが売ってしまいました。四百円ばかりありますのよ。

大阪の帰りに電気コンロを九十円で買ひ、一度つけたらヒューズが切れ、大へんな目に合ひました。お父さんのやる事は皆こんあ事ですネ。九十円は其のままでせう。芋でも買った方がよかったと思ひます。

してはいけない事は、けっしてするのではありませんよ。安東出発の時の事を考へても、貴方はよく判ると思ひます。貴方はけっしてしてはいけない事はしない様に。自分のかってな考へを付けてやってはいけませんよ。

寝小便によい薬はないか、焼津の人に聞いて下さい。博正に泣かされます。お金が出来たら、貴方がした電気でもかけて見様と思ってます。

着物も此の上心配かけては申訳ありません。其のまま送り返して下さい。(編注、「着物」のことは私あての手紙にはここで突然出てくる。多分、母が別途祖母に手紙か葉書で頼んでいたのであろう)貴方がお米を入れて行ったフクロ、リュック、フロシキ(一枚)(編注、私が室津から焼津に持って行ったもの)送り返して下さい。其の時一円位ひでも弟達に何にか入れて下さい。アメ一つでもどんなによろこぶ事でせう。

身体を大切に。其ればかり心にかけてます。家の方は少しも心配入りません。

                          母より

義昭様

静岡の方で室津の子供の買ひそうなオモチャがあれば、安物を送って下さい。少しでもよいです。

 

6 義昭から母へ 22.2.11

(前略)電報でお知らせした通り、今日静岡市立第一中学校の二年へ入學を許可されました。明日の紀元節(編注、現在の建国記念日で、現在も戦時中・戦前も祝日で休みだったが、終戦後当分の間は休日ではなかった)に初登校します。どうぞ御安心下さい。(中略)今日は伯父(編注、常徳)さんと一緒に九時迄に學校へ行き、試験を受けました。結果は、代数百点、幾何百点、国語、文法二つとも百点、漢文百点、英語八十でした。尤も問題は皆二年の一学期程度のものでした。(中略)それにしても、伯父さんにはずい分お世話になりました。伯母さんが浜松に行った時(編注、当時久子伯母は、焼津で仕入れたまぐろ、さばなどを浜松市の飲食店に持って行って直売していた。)でも、忠雄と和雄と同じ大きさの小さな子供を二人(編注、曽田宏(ひろし)と故曽田収(おさむ)のこと)きり置いて、行って下さったこともありますし、非常に忙しい時にもわざわざ行って頂いたりしました。(編注、転記を省略したが、この手紙に詳細書いてあるように、この転入問題でたびたび県庁に行くことがあり、伯父と同行して二回、私一人で三回行き、そして最後に伯父が同行してくれたのである。)よくお禮を言って下さい。

學校へ這入ったら出そうと思って居る中に二十日近くも御無沙汰してしまひました。御心配をかけた事と思ひます。今度からは、一週間か十日に一度はお手紙を出します。お暇がありましたら、そちらの様子もお知らせ下さい。お願ひします。

(中略)お祖父さんは、毎朝四時半か五時頃起きて遠くの方にイカを買ひに行かれます。僕も時々ついて行きます。尤も僕は今度から日曜日の外は行かれないでせう。サバ船が這入った時等は日に六七回浜に行きます。弥作をぢさん(編注、祖母まさの末弟)の船が来た時は、二十貫も買ひます。又、往復一里半から二里位の所(編注、多分現焼津市石津だったと思う。)に買いに行って三貫位かついで来られます。

(中略)すみませんが、何か仕事着を送って頂けないでせうか。あれば、上下、なければ上衣だけでも結構です。學校へ行く時と、家で魚を買ふのを手伝ったりするのと別にしなければなりませんから、すみませんがお願ひします。(以下略)