亡き母をしのんで

「亡き母をしのんで」と題して、昭和56年11月3日に亡くなった父・米田義昭が生前原稿用紙に残した文章を公開します

あとがき

一 母の子供たちに対する愛情に分け隔てのあろうはずがないが、満一才の誕生日の翌日に母を失った登志子は論外としても、美栄子でさえ母の亡くなったときまだ九才であった。私はそのとき一八才だったから、結果的には、私が最も長い期間母の慈愛のもとに育てられたことになる。その意味において、私は弟妹に比べはるかに幸せだったと思っている。その私に対する母の手紙を弟妹に示すことは、弟妹をうらやましがらせることになって酷かも知れない。けれども、その手紙には弟妹のことも書いてあるし、弟妹にとっても、文章に残ったものとして母を知る手がかりはその手紙しかないのだから、やはり示した方がよいと思ってこれを書いた。

 

二 母が私に「貴方の世に出る日を待って居ります。」(三五ページ)と書いたとき、何をもって「世に出る。」と考えていたのか分らないが、まさかあの時点でさほどの高望みをしていたわけではあるまい。私は今、山口地方検察庁次席検事の地位にある。もとより微官にすぎず、その小成に安んずる気はないが、母の望んだとおりの「世に出」たことにはなるのだろうと思う。母の期待に添うことができて嬉しい。そして、弟妹たちもそれぞれ成人し、幸福な家庭生活を営んでいる。今母が生きていたら、さぞ喜んでくれたと思う。このような結果を願ったではあろうが、決して現実性のある望みとすることはできず、ただ漠然と子供たちの幸せを祈りつつこの世を去った母があわれでならぬ。せめて一日でも、今日のこの日を母に見せ、これまでのことを語り聞かせやれるものならと思わぬことはないが、それはせんない望みである。若しあの世とやらがあるものなら、私がこの世を去ったとき、真先に母に会って、「お母さんの播いた種は、みんな見事に成長しましよ。孫もできましたよ。お母さんの一生は、決して無駄はありませんでした。」と報告したい。それがかなわぬにしても、私がこの世を去ったら、母と同じ墓で、母と共に静かに眠り、あの室津の穏やかな海と山を一緒に眺めたい。

三 それはさておき、私が今述べた意味で世に出ることができ、母の期待に添うことができたのは、両親と祖父母は別格として、いつに曽田忠叔父・光子叔母夫婦の情けによるものである。私が叔父・叔母にどんなに両親のごとき愛情をもっていつくしみ、はぐくまれたか、その詳細はことには書かぬ。妻子には常に事こまかに語り聞かせてきた。私は忠叔父・光子叔母の御恩を終生忘れない。そして、妻子にも、そのことを終生忘れないで欲しいと言い聞かせている。この機会にその御恩のことを特筆しておく。

 

四 忠叔父・光子叔母の夫婦の世話になったのは、私だけではない。他にもいろいろお世話になったことと思うが、是非とも書き残しておきたいことは、私が忠叔父・光子叔母夫婦のお蔭で司法修習生となり、検事になることができたために、当時としてはかなりの金を父に仕送りをすることができたことである。美栄子、博正らが進学できたのはそのためとまでは言わぬが、若しその仕送りがなかったら、美栄子も博正も、もっともっと貧しい、みじめな学生生活をしなければならなかったはずである。父の仕送りの金の出所の一部は私であり、私にその仕送りができたのは、忠叔父・光子叔母夫婦のお蔭である。弟妹たちは、このことを決して忘れてはいけない。以下参考までに仕送りの金額なども書いておく。

 

五 定期的な仕送りの開始は昭和三〇年四月一五日であり、毎月五千円であった。私が司法修習生になった直後である。弟妹を私の扶養家族とし、また扶養控除を受ける扱いとしてもらったので、私が同僚と同じ手取りで、その中から仕送りをしたのではないが、当時五千円は私にとって大金であった。修習生の本俸が月額一万二千円だったと思う。従って、毎月五千円の仕送りは、美栄子を柳井高校に通学させるについて少なからぬ助けとなったはずである。

この五千円の仕送りは毎月かかさず続け、昭和三一年四月から七千円に増額した。この当時、私は忠叔父・光子叔母の家を出て独立していた。同年三月からの独立だが、司法修習生になってからも、私が一年近く忠叔父・光子叔母方に置いていただいたのは、私の甘えからであった。かくてはならじと独立し、その後はいわば心の寄りどころとして、引続き忠叔父・光子叔母の恩恵を受けたが、経済的に独立したからには、もちろん修習生の給料ですべてを賄わねばならぬ。私は、三一年三月から西武新宿線下井草駅近く(杉並区八成町三五小俣方となっている。)の学生アパートの一室(三畳一間)を月三千円で借り受け、自炊生活をを始めた。愚痴をこぼすなら、この当時私が他の修習生と全く同じ条件で給料をもらい、それを自分のことだけに使うことができていたとしたら、最近の独身貴族ほどではないまでも、いわゆる若さを楽しむ生活をもっとすることができたはずである。若干の扶養家族手当をもらっていたとはいいながら、独立した上、毎月の仕送り額を二千円増額して七千円にするのは、きびしい耐乏生活を強いられるものであった。それをあえてしたのは、この三一年から、美栄子、博正の二人が柳井高校に通学するようになったためであった。この当時、この毎月七千円の仕送りがなかったら、二人が高校に通学することが可能だったろうか。二人共、貧しい学生生活を送ったことは私もよく話を聞いた。しかし、その仕送りがなかったならば、例え二人の通学が可能であったとしても、更に貧しい、みじめな高校生活を送らなければならなかったことは疑う余地のないところである。当時、父の収入は少なかった(と父から聞いている。)

私がそのようにして仕送りをしたのは、父・弟妹に対する愛情もさることながら、子供たちのことを考えて、死ぬにも死ねぬ思いを抱いてこの世を去った母の遺志を継ぐ気持ちが大きかったからだ。それがせめてもの母への孝養だと思った。

それにしても、私が下級公務員や下級会社員などであって、例えその気があっても、自分が生活するのが精一杯、あるいは自分自身の生活もできかねる状態だったら、月千円といえども仕送りができなかっであろう。その仕送りを可能ならしめたのは、何度も繰り返すようだが、忠叔父・光子叔母の情けのお蔭であり、私が司法修習生になり、やがて検事にならなかったら、私がいかに耐乏生活をしても仕送りをすることはできなかった。

 

六 この耐乏生活のことにも少し触れておく。私は昭和三一年四月九日から三三年八月一日まで毎月七千円を父に仕送りし、たまたま父と会った月にはこれを手渡した。私は几帳面な性格だから、生活の歴史を残す意味で書留郵便物受領証を丹念に保存し、小づかい帳に記録している。だから、以上のように、また以下のように、正確なことを書くことができる。漱石の「道草」三十一、三十二に、健三(漱石自身がモデル)の父が古い書類一式をひとまとめにして取っておいた話が出てくるが、私は自分の生活記録とするほかに他意はないけれども、古い書類を何でも取っておく点では似たような話である。

さて、その仕送りは三三年九月一七日送金分から五千円に減額されている。その年の一〇月二七日黒田寛子と結婚することが正式に決まり、その準備をしなければならないし、結婚後の生活のことも考えたからだ。もとより、挙式・披露宴について父の援助は受けぬ。結婚後の生活について寛子の実家からの物質的援助は受けぬ。私がもらう給料の中から毎月五千円を仕送りし、その残りで生活することが寛子との婚約時からの約束であった。かけ出しの検事は薄給であり、その中から弟妹分の若干の天引をした残りで二人の生活をするのは、寛子にとって健気な覚悟を要することであった。例えば、ある朝二人で食事をしているとき、私のおみおつけの中に卵の黄身があり、寛子のそれの中には白身しかないことに気づいたことがある。私は思わず「キミ(君)のところに、キミ(黄身)がないね。」と言ったが、つまり一つの卵を二人で食べるような生活だったのである。

(続く)