亡き母をしのんで

「亡き母をしのんで」と題して、昭和56年11月3日に亡くなった父・米田義昭が生前原稿用紙に残した文章を公開します

6 義昭から母へ 22.2.11

(前略)電報でお知らせした通り、今日静岡市立第一中学校の二年へ入學を許可されました。明日の紀元節(編注、現在の建国記念日で、現在も戦時中・戦前も祝日で休みだったが、終戦後当分の間は休日ではなかった)に初登校します。どうぞ御安心下さい。(中略)今日は伯父(編注、常徳)さんと一緒に九時迄に學校へ行き、試験を受けました。結果は、代数百点、幾何百点、国語、文法二つとも百点、漢文百点、英語八十でした。尤も問題は皆二年の一学期程度のものでした。(中略)それにしても、伯父さんにはずい分お世話になりました。伯母さんが浜松に行った時(編注、当時久子伯母は、焼津で仕入れたまぐろ、さばなどを浜松市の飲食店に持って行って直売していた。)でも、忠雄と和雄と同じ大きさの小さな子供を二人(編注、曽田宏(ひろし)と故曽田収(おさむ)のこと)きり置いて、行って下さったこともありますし、非常に忙しい時にもわざわざ行って頂いたりしました。(編注、転記を省略したが、この手紙に詳細書いてあるように、この転入問題でたびたび県庁に行くことがあり、伯父と同行して二回、私一人で三回行き、そして最後に伯父が同行してくれたのである。)よくお禮を言って下さい。

學校へ這入ったら出そうと思って居る中に二十日近くも御無沙汰してしまひました。御心配をかけた事と思ひます。今度からは、一週間か十日に一度はお手紙を出します。お暇がありましたら、そちらの様子もお知らせ下さい。お願ひします。

(中略)お祖父さんは、毎朝四時半か五時頃起きて遠くの方にイカを買ひに行かれます。僕も時々ついて行きます。尤も僕は今度から日曜日の外は行かれないでせう。サバ船が這入った時等は日に六七回浜に行きます。弥作をぢさん(編注、祖母まさの末弟)の船が来た時は、二十貫も買ひます。又、往復一里半から二里位の所(編注、多分現焼津市石津だったと思う。)に買いに行って三貫位かついで来られます。

(中略)すみませんが、何か仕事着を送って頂けないでせうか。あれば、上下、なければ上衣だけでも結構です。學校へ行く時と、家で魚を買ふのを手伝ったりするのと別にしなければなりませんから、すみませんがお願ひします。(以下略)